第3回 蝋燭と提灯と

 田  桂 介   

 

 

 蝋燭の伝来

 「貧者の一燈」という言葉が佛典にあるから、その昔中国から渡ってきたものか、または古くインドからのものなのか分からないが、インドからのものとするとこの一燈も、これに対比される万燈も蝋燭の灯りであるような気がする。そうするといつ頃蝋燭が発明されたのかという詮索心が起ってきて、ものの本を調べてみると紀元前3世紀頃の青銅製の燭台が中国で出土しているということから大凡2,300年前の戦国時代、中国の王侯貴族が蝋燭の明かりを堪能していた、ということになる。

 それでは我が国ではどうなのだろうか。遣隋使とか遣唐使によって佛教とともに伝来したであろうことは分かるが、貴重な輸入品として、宮廷、寺院などで儀式用としてちょっぴり使われたものか、どうなのか。

 考えてみると日本人は上古から近代まで、闇に眼を慣らす生活をしてきた。荏(え)の油や菜種油や松脂などを頼りにする灯火具で、例えば行灯などに灯芯1本をつけて、蛍火のような光を引寄せ、縫いものの針を動かす女性の姿を、テレビドラマは時代劇で見せてくれるが、あれなどはまだいい方で、大方は日が暮れると寝に就き、夜が明けるとともに起きるという、そんな生活をしていたのではないか。

 

 蝋燭の普及

 秀吉の時代になって、日本でもようやく蝋燭が作られ出したと謂われているから、秀吉とてもその一生のうちに蝋燭の光の明るさを満喫できたということは何回あっただろうか。

 江戸城などで綺羅星のように並ぶ大名達の席上、煌々とした大蝋燭が立ち連なっている光景などは、相当に時代が下がった頃の、それもドラマを通しての想像である。

 江戸時代に入って次第に蝋燭が普及したとはいえ、おそらく可成り高価なもので、特権階級の特殊な用途にしか使えなかったらしく、何らかの儀式やお祭りや酒宴、集会など、人がたくさん集まるようなとき、或いは上流の武家、裕福の商家などの物儀(ものぎ)のとき、のような場合の使用に限られたようである。江戸期といえば町人抬頭の時代であって、文化、経済とも支配階級の武家社会を凌駕していたようだが、それとても夜は菜種油で灯芯の行灯であった。

 畳表の藺草の髄を引き出したのが灯芯で、それを油皿に1本、暗ければ2本、3本と副えるが、副える本数だけ明るくなるものの、それに比例して油の消費が進む。何かとつつましい生活の昔の人が2本、3本というゼイタクは余程のときであったにちがいない。

 

 提灯の伝来と普及

 今でも旧家といわれる家の土間の上り口に、定紋入りの提灯箱がいくつも長押の上に並んでいるのを見る。あの中には、例えばソレッ火事だという大変なときの外へ飛び出す折、咄嗟に持ち出す提灯と蝋燭が入っている筈である。昔は外燈もなく真っ暗であったための非常の備えであり、蝋燭は大方の日常生活のなかでは特殊な用途のためのものだった。

 面白い話がある。赤穂浪士が吉良邸打ち入りの際、浪士の磯貝正久が屋敷内へ踏み込むと真っ暗。そこで吉良家の下人をおどして1束の大蝋燭を出させ、それを部屋々々へ立てて廻り、一同の動きを大いに助けた、というのが山手樹一郎の小説の中にある。3万2千石という大身の吉良家であっても、蝋燭は何かの折に使うべき常備のものだったのだろう。

 江戸時代、商人経済が発展してくると人々の動きは活発となり、夜間の外出も多くなる。また旅行なども盛んになるが、そういうとき必要になるのが提灯だった。蝋燭の普及があってこそ考え出されたヒット商品である。

 いままで提灯というのは日本で考案されたものとばかり思っていたが、調べてみるとなんとやはり中国がその源流であった。いささかガッカリだが、それでも日本という国は面白い国で、何事によらずところにより用途によって、それなりの姿、形を整え、それを美しいものに煮つめてゆく力を持っている。

 蝋燭の形は早くからあのずん胴型に形が定まっていまに続いてきているが、提灯には各地でいろいろな形に出会う。日本には提灯に最適の和紙があり、和紙があることにより提灯の発達があったといえようか。

 その数多い提灯のなかで最も普遍的なのが「ぶら提灯」といって、ぶらぶら提げて歩くからこの名が付けられ、どこででも見られる丸形のものである。旧家の提灯箱の中味もこの提灯である。それに屋号や家紋を入れたりしているが、私の子供のころの八尾町の夜の路上はまだ街灯も少なく暗かったので、使いにゆくときや夜のお墓詣りにはこれを提げて行ったものである。

 そのぶら提灯、たかが提灯かと思いながら仔細に見ると、なかなか驚くような発見がある。昔の人が永い間かかって出し合ってきた智恵の固まりみたいなものがここにも見られた。

 

 提灯、その構造

 提灯を提げるときの持手、黒漆塗りの34、5センチほどの長さで、握る部分の手許と先端部に藤が巻きつけてある。

 その持手の中に仕舞い込まれている飴色のものの端を引張り出してみると、偏平角に削った細い棒が伸びて出てきてしなしなと撓(しな)る。鯨のヒゲであるそうな。鯨のどこの部分のヒゲなのかわからぬがそう聞いた。竹などよりもはるかに強い弾力で撓やかである。

 引張り出してそのヒゲの先につけるのが蝋燭の熱除けの笠である。円形の漏斗型をしていた径10センチもあろうか。提灯にともした蝋燭の炎と熱が真っ直ぐに立上るのをこれで遮断しようというのである。紙縒り製の編組品で漆が塗ってあり黒くカチカチになっている。大福帖など1度使った和紙をコヨリにして編んだものだが、まことに緻密に美しく編まれていて昔の人の手技に感心する。ぶら提灯をいくつも見たが様式はみな同じであるので、これはこう作るものという一定の形式が全国的に成り立っていたものだろうか。この2点、鯨のヒゲとか紙縒りの熱除けだけを採り上げてみても、ここまで作りあげるには積んだり崩したり、提灯職人たちの相当の時間と工夫があった筈である。

 

 旅と提灯

 江戸時代後期にはいまから想像もできない程の旅行ブームであったという。楽しいことの少なかった時代に、お伊勢詣りとか富士講とか、庶民たちは歴史上かつてなかった平和な生活を克ち取っていたのか。旅をする人々で東海道も中山道も賑わいが絶えなかった。そして旅には提灯と蝋燭が必須持物であったろう。

 小田原提灯という小型に折り畳める軽便な提灯がブームとなり、それに似合う小型の蝋燭が売り出された。これで庶民の生活と蝋燭との距離がぐんと近くになった。小田原提灯も口のところと底のところは、ぶら提灯の熱除け皿と同じ紙縒り細工のものが殆どである。底を返してみると編み初めの芯の部分から外に向けて、菊の花のように広がる編み方で、漆で塗り固められているコヨリの浮き立つような跡目が美しい。

 

 提灯づくり

 県下でもいまは珍らしくなってきた提灯づくりの職人さんが、八尾の町に1人いる。

 坂本善治さんである。先代から和傘づくりと提灯づくりをされていたが、傘は洋傘の普及で需要がなくなり、祭礼があるおかげで辛うじて提灯だけの仕事が残った。

 「いま、提灯をつくっているから、見にこられんか」という案内をいただいて出向いてみた。以前は元気のいい人だったが、もう78才になられ、病後のこととてずいぶんと小柄になっておられた。畳敷6畳間の隅に、いま型を抜いたばかりの、1メートルもあろうかと思われる高さのずん胴の祭礼用大提灯が立てられていた。1対つくるので、あとの1個にとりかかる前のちょっと一服というときであった。

 畳の上には木製でさまざまな形の小道具が散らばっていて、その色合い、擦れ工合はどれも永年使いこなされてきたことをしのばせて飴色になっている。くさび形のものが多いようだった。

 仕事はまず提灯の紙を貼る前の骨組みからはじまった。これが根幹になる。すべてが部品の組立てなので、立ったり座ったり、周りに散らばるクサビを拾って締めつけたり、説明のしようもない熟練と重労働の連続にただただ感動しながら見ているだけだった。

 これだけの大提灯の骨格づくりとなると、さすがに善治老1人では手不足で、老夫人が傍らから助っ人になる。大提灯の底部に当る古い型に何か書かれている。

 「越中国石川県婦負郡」とある。明治9年から数年間富山県は石川県に編入されていたから、約120年前になる。

 坂本さんの家はそれだけの歴史を持つ老舗だったのだ。

 

 紙と提灯

 型を組みあげると今度はそれに細い竹ヒゴを巻いてゆく。型を廻しながら間隔の目を追って巻くのだが、どうもそれが細くて白い節のないようなヒゴなので尋ねてみると、なんと細い針金に紙を巻いたものだという。昔から提灯の骨は竹ヒゴとばかり思い込んでいたが、ここにも時代の推移があり、少しでも手間のかからぬように、との智恵が働いている。針金に巻かれた紙は、表面に貼る紙と骨とが糊でしっかりと接着できるようにするためなのだ。

 傍らの擂(す)り鉢に糊がつくられていた。蕨(わらび)糊である。いまどきは化学接着剤もいろいろある筈、しかし「昔とおんなじことしとるちゃ、これでなければ承知しられんから」とは手伝いの老夫人。

 蕨糊は、蕨の根っこから採る白い澱粉糊で、鍋に固めに溶いて3、40分つきっきりで焦げないように煮る。煮あがると擂り鉢に移し、柿渋を少量加え、さらによく擂りあげる。この柿渋を入れるのがコツらしい。こうして驚くほど強い粘着力を持つ糊が、傘などの骨と紙との接着に用いられたのである。

 残念ながらこちらの時間がなくて、この蕨糊で紙を貼る仕上げの仕事を見ることができなかったが、あの固い糊をどう使いこなすのか一見したいものだ。

 ところで八尾の山家では江戸時代初期から冬になると紙漉きが盛んで、その紙の大半が富山売薬の袋などに使われたが、ほかに障子紙、傘紙、提灯紙などの生産も相当量あった。提灯紙は明かりを通さねばならぬため透明度が必要な上、薄手ながら繊維の絡み工合が緻密な、しかも強度のあるものが要求された。いまは八尾町に編入されているが、以前は仁歩村といわれた村の松倉という集落から漉き出された提灯紙は、楮の皮を江戸時代から続く手法の木灰のアクで煮て、皮についているゴミやキズを丹念に取り除くという方法を経て、前場に出し竿に掛け連ねる。厳冬のさなか、それも八尾の町から10キロも山の奥、渓谷の風は夕暮れになるともう凍みはじめるので、1晩の夜干しで楮の皮はカチカチに凍る。このように、煮た皮を冷凍させるという処理は類例のない方法なのだが、このために楮の繊維には何らかの変化が起こり、松倉紙という提灯に最適の紙が生まれたのではないか。

 凍った皮は解凍してから石の上で木槌で丹念に叩く。叩いて広げ、引繰返してまた叩く。この繰返しで、細い繊維は1本から2本に3本に、さらにその繊維から微毛が出たりして研がれる。

 このようにした原料を手も切れるような冷水の中から漉きあげると、薄手ながらパリッとして、腰の強靱な、象牙色の透明度抜群の紙ができあがる。「松倉紙」はまさに提灯紙の王さまだった。いまはもうこうした紙にお目にかかることはない。

 

 蝋燭づくり

 1月の16日は、毎年大荒れの雪空になることから、昔はこの空模様を「ごまんさん荒れ」と呼んでいた。親鸞上人のご命日で、善男善女が雪道をかきわけ、夜通しのお寺詣りをするのが真宗王国富山の習わしである。

 この夜のお寺の御(み)堂の入口に大蝋燭が1対での2本立ち、高い炎をあげていたのが子供の頃の記憶にある。

 「蝋燭屋」さんも、以前はどこの町にもあったのだろうが、いまは富山市中央通りの尾島健一さん、高岡市旅篭町の槻橋さん、ほかに黒部か滑川あたりに1軒と開くが、和蝋燭の需要もお寺さんあればこその細々とした継続、ということになってしまった。

 「ごまんさん」の行事はいまも真宗のお寺に続いていて、大蝋燭の註文は絶えなくあるが、昔のように一貫匁蝋燭という巨大なものはなく、その半分の五百匁ていどになってしまったと蝋燭屋さんはいう。五百匁蝋燭とはどれほどの大ささのものか分からぬが、因みに値段は、ときくと1本5、6,000円位のものという。

 或る日、高岡の槻橋屋さんで、蝋燭をつくる作業を見せて貰った。お店の中は蝋燭店という構成でなく、お香屋さんで、沈木とか伽羅とかの名香がガラスケースの中でコレクションされ、店内は香のかおりに満ちていた。

 狭い仕事場には真っ黒な大鍋が二つ、中に澄明な液体をいっぱいに湛えながら炉の上に乗っている。澄明な液体は蝋であり、炉には蝋が冷えて固まらない程度の弱い炭火が埋め込んである。入口に近い室の隅に縁(へり)の分厚い流し台が、床板にべたりと据えられていて、その前にこの家の主人がどかっと胡座を組んで仕事をしていた。易者が使う筮竹のような竹の棒に、蝋燭の芯が巻きつけてあるのを十数本ほど、鍋に澄んでいる液の中にどっぷりとつけ、流しの板の上でしばし揉んでから、両の掌で縄を綯う手捌きで棒をこすり合わせて廻す。軽快なリズミカルな音がする。1工程が終ると傍らにそれを立て、つぎの十数本というふうに、右に左に身をよじって、手の届く範囲で竹の棒の1握りづつを並べてゆく。手際の良さに見とれているうちに、蝋を重ね重ねしてゆく竹棒の蝋燭が次第々々に太くなる。幾回かけるのかと聞くと15、6回だろうという答え。それで1本4匁の蝋燭が出来、目加減、手加減に狂いはない。最後に表面を手で撫でつけて化粧をし、薄刃で口のところを切って芯を出し、一定の寸法に切り揃えると仕上りであるが、箱の中に並べられてゆく白い蝋燭は、いまこの世に生まれ出たばかりという、まことに清浄無垢な感じであった。

 

 朱蝋燭のことなど

 蝋燭には白蝋燭と朱蝋燭があって、朱の方はお芽出度に関係するときに使われるが、裡から滲み出るような深い朱の色は美しい。さきに蝋燭の形には昔も今も変化はないといったが、朱蝋燭になると普通のずん胴型のほかにバチ型という形が出てくる。丁度三味線のバチに似て、上部が大きく開き、中程は細く根方がやや太目になり、武家が裃を着けたように端正である。いつ頃に発生したものか分からないが、日本人が生み出した勝れた造形である。仕事場の棚の上で、小さな鉋の、台が凹部を削るように円味になっているのがあったが、バチ型はこの鉋で削り出すのである。

 朱蝋燭の朱は一体どんな色料を使っているのかという疑問が生じて訊ねてみたが要領を得る答えを貰えなかった。朱蝋燭というのは作って半年もすると褪色して、それも紫色がかった汚い色になる。

 それを槻橋さんは「うちでつくるものは特別の工夫がしてあるので変色も褪色もしない」といわれるので特別な工夫とは?と訊くと「それは企業秘密」との答えだった。

 専ら佛事に使われていた朱蝋燭だが、その美しさ、バチ型という形の良さから戦後のクリスマスパーティなどにも使われてきて、需要もまだ多いとはいえないが、季節になると東京の民芸店から注文がくるという。1本ずつ箱に入れ、詰めものをして動かぬようにして出荷するのだが、さいきんになつて蝋燭の生命ともいうべき先端の芯が折れて届くという苦情が出てきた。以前にはあまりなかったことで、原因が分からなかった。和蝋燭の芯は例の竹の棒に薄手の和紙を巻いて、藺草から引き出した髄、いわゆる灯芯をその上から巻きつけてつくるのだが、近年は和紙の代りに古くなった電話帳の紙を使っているとのこと。和紙は楮という長繊維が搦み合って出来ている丈夫なものなのだが、電話帳用紙は足の短い化学繊維をさらに微少にして抄造されているので、力が加わればすぐに裂けてしまう弱い紙である。これでつくった芯では「折れる」というクレームがつくのはやむを得ないかも知れない。

 

 和蝋燭と西洋蝋燭

 和蝋燭は木蝋からつくられているとばかり思っていた。ところが30年程も前になろうか、或る日或るとき突然に和蝋燭の蝋が白くなった。

 木蝋、いわゆる和蝋は黄ばんだ褐色をしている。櫨の木の実から採集するが、北九州、四国などが産地であった。

 明治になり西洋蝋燭が輸入され、あのちょっぴり糸芯の見える白い蝋燭が、価格の廉さと明度の高さからたちまち家庭の中に入ってしまった。蝋燭というものが佛壇に灯るようになったのは、こうして明治になってからで、以来佛壇に蝋燭という生活習慣が身について今日に至っている。西洋蝋燭は、西洋蝋、即ち獣魚油、パラフィンなどが原料といわれるが、それが価格は廉く色が純白であるので、たちまち和蝋を駆逐し、形こそ和蝋燭であるが中味は西洋蝋が原料ということになってしまった。尋ねてみると木蝋と洋蝋では原料価格に5、6倍の差があるそうだ。佛壇を修理する漆屋の話では、本物の和蝋燭では煤の出が少なく佛壇の汚れもないが、西洋蝋燭ではそれがヒドイということだった。そんなことばかりでもないが、どうも安くて手間ヒマのかからない新しいものには、兎角一言ものをいいたいことが出てくる。
 
 
 

(よしだ けいすけ・桂樹舎和紙文庫館長)  −平成12年2月5日放送− 

 

※ 著者の役職名は、放送日現在のもので表示しています
 
 

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